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花ノ本流とは、十六代宗家・二代目花ノ本 寿を中心とする日本舞踊の流派のひとつです。
この花ノ本という名跡の歴史は大変古く、室町時代の連歌興隆期の代表者、飯尾宗祇(いいおそうぎ)が始祖とされています。

もともと、鎌倉時代、地下(じげ・・・平民、堂上という公家を意味する言葉の対義語)の連歌師が、神社、仏閣の境内の花の下に興行の座をもっていたため、花の下(もと)と呼ばれていました。
それから後、室町時代に将軍に認められて、連歌界最高の宗匠(指導者)の尊称となりました。

応仁の乱の後、応永から文亀年間にかけて連歌を大成した飯尾宗祇が、1488年長享2年に時の帝・後土御門天皇に、その功績を認めめられて花ノ本という称号を賜りました。
とくに、1495年の飯尾宗祇の著作「新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)」によって、純正連歌が確立しました。
それ以後、俳諧の名人によってこの名跡が引き継がれました。
そして、十一世の花ノ本聴秋が旅の末、長野県松本市に訪れて、根を下ろし、連歌の稽古場を開きました。
師の没後、一門の推薦により、門弟の一人が十二世翠を名乗りました。

それから、その実子に十三世、さらにその実子に十四世を譲りました。

十四世翠は松本市の日本舞踊家、花柳太衛蔵師ととても親交が厚く、東京で日本舞踊花ノ本流を創立することを発案しました。
昭和30年、花柳太衛蔵師は、十四世の長女以知子とともに上京しました。

一方、広島県三次市で生まれた十五世宗家・爽(初代花ノ本 寿)は、地元で花柳流にて幼少より日本舞踊の稽古を続けた後、上京。花柳太衛蔵師の元へ入門しました。
そして、翌年東京・神楽坂の若宮神社にて、花ノ本流第一回の名取式が行われ、事実上日本舞踊花ノ本流の創立、 その折り17歳の寿は十四世翠と太衛蔵師の薦めにより日本舞踊花ノ本流の十五世を許されました。
そして太衛蔵師は、花ノ本葵という名で日本舞踊花ノ本流の流祖となりました。
十五世宗家・初代寿の長男、花ノ本 海が2018平成30年、十六代として宗家を継承、二代目花ノ本 寿を襲名し、初代花ノ本 寿は花ノ本 爽(そう)に改名しました。

初 世 飯尾宗祇
1421年 応永21年生。1488長享2年京都北野会所で花ノ本宗匠となる。
1502年 文亀2年1月没(82歳)。
二 世 松永貞德
1598年 慶長3年勅許によって花ノ本を名乗る。
1654年 承應3年11月11日没。
三 世 千丸
寛文12年6月19日没。
四 世 貞室
延宝8年2月7日没。
五 世 貞怒
元禄15年3月4日没。
六 世 蘭更
寛政10年5月3日没。
七 世 桃隣
寛政12年12月20日没。
八 世 蒼徳
天保13年3月10日没。
九 世 梅通
天治元年3月12日没。
十 世 晴江
明治14年12月31日没。
十一世 聴秋
大正3年3月20日没。
十二世 翠
大正9年10月31日没。
十三世 翠
昭和41年3月17日没。
日本舞踊花ノ本流流祖 葵
昭和61年9月1日没。
十四世 翠
平成22年1月17日没。
十五世
寿 改メ 爽。
初代家元
以知子
二代目家元
海 改メ 十六代宗家 寿